病院の待合室に座っているだけで、背筋にじっとりと汗が滲んでいた。
初めて受ける乳がん検診。薄い紙に包まれたような不安と、理由の分からない緊張。
夫が隣にいてくれることが救いだった。けれど、それ以上に——どこか、居心地が悪い。
受付で呼ばれる名前が聞こえ、私は小さく返事をして立ち上がった。
診察室のドアの向こう、真っ白な照明がやけに眩しい。
白衣の医師と視線が合った瞬間、その眩しさと同じくらい、胸の鼓動が速くなる。
「ご主人も一緒にどうぞ」
医師の穏やかな声に、私は驚いた。
夫が中に入るのが普通なのかどうかも分からない。けれど、「触診のやり方を教わりたい」という夫の一言で、なぜか許されてしまった。
その瞬間から、私の中にあった“医療”という安全な枠が、少しずつ崩れていくのを感じた。
説明や問診が淡々と進む。
医師が記録を取りながら、「違和感や痛みはありますか?」と問う。
私が小さく首を振ると、医師は夫にも問いかけた。
「ご主人、奥さんの胸にしこりのようなものを感じたことは?」
その言葉に、頭が真っ白になった。
視線を下げると、スカートの膝が揺れているのが自分でも分かる。
夫がどう答えたのか、ほとんど覚えていない。
ただ、医師の声が部屋の中で妙に響いて、体の奥にまで刺さってくるようだった。
「では、脱いでください」
そう言われた瞬間、世界がスローモーションになった。
手の震えが止まらず、震える指先でボタンを一つずつ外す。
視線をどこに置けばいいか分からない。夫も医師も、すぐそこにいる。
ブラウスの隙間から、冷たい空気が肌に滑り込み、背中が粟立った。
医師は淡々としていた。けれど、私にはその無表情が余計に怖かった。
“診る”という行為のはずなのに、人の目のように熱を帯びて感じられる。
体の一部を差し出すような、逃げ場のない裸の時間。
「両手を上に上げてください」
「胸を張って」
「もう少しこちらを向いて」
声に従うたび、私の体は棒のように硬くなっていった。
視線を感じる。いや、皮膚の上に乗るように圧がある。
白衣の袖が動き、すぐに指先が触れる。
軽く、けれど確かにそこに存在する指の温度。
その瞬間、呼吸が止まった。
痛くはない。けれど、くすぐったいとも違う。
胸の奥のずっと奥、心臓の鼓動が指先に共鳴しているような、そんな変な感覚。
目の前の医師が何かを説明している。
そして、夫が真似をして、掌が胸に触れたとき——
息がひとつ漏れた。
「優しく、ゆっくりと」という医師の声が、まるで催眠のように遠く響く。
夫の手の動きがぎこちなく、それがかえって肌の感覚を鋭くした。
乳房の柔らかさ、皮膚をかすめる指の面積、呼吸の浅さ——
それらすべてが時間を引き延ばし、恥ずかしいのに、体は覚えてしまう。
頭では「検診」と理解しているのに、心は反応をやめてくれない。
視界の端で白衣が動く。
医師の指が、夫と同じ場所をもう一度なぞる。
どちらの指か分からなくなった頃、私の中で何かがはじけた。
ベッドに横たわったとき、照明の光が目を刺す。
胸の上を覆う影が重なり、息が乱れる。
「リラックスしてください」と言われても、どうしても無理だった。
逃げたい。
でも逃げる場所がなくて、ただ自分の体が誰かの手に委ねられているのを感じる。
「ここ、少し硬いですね」
医師の指が止まり、その周辺を押さえる。
体の奥がキュッと縮こまり、声にならない息が洩れた。
その瞬間、背中が小さく跳ねたのを自分でも分かった。
夫の視線が刺さる。
——見られている。
羞恥と混乱と、得体の知れない衝動が混ざり合って、涙が出そうだった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
触れられるたび、息が浅くなり、足の先まで緊張が走る。
「異常はなさそうですね」の声を聞いたとき、張りつめた糸がぷつんと切れたように体から力が抜けた。
ブラウスのボタンを留めながら、心臓の鼓動がまだ治まらない。
夫は何も言わなかった。
医師の言葉も耳に入らない。
ただ、自分の体が熱をもったまま外へ出たことだけははっきり覚えている。
帰りの車。
窓の外を滑る街の灯りが、やけに遠く見えた。
夫はハンドルを握りながら沈黙している。
「怖かった?」と問われても、首を縦にも横にも振れなかった。
怖かった。でも、それだけじゃない。
触れられた場所がまだ火照っているのを感じる。
医師の手、夫の手、その区別がつかないほど混ざり合った感触。
それを思い出すたびに、体の奥が微かに疼く。
——あの時の私は、何を感じていたんだろう。
恐怖?それとも、安心?
それとも、誰にも言えない何か。
家に着いて、玄関の明かりをつけた瞬間、
夫に後ろから抱かれた。
声にならない息を飲み込みながら、私は抵抗できなかった。
皮膚の下にまだ残っている“あの感覚”が、夫の手と重なっていく。
違うのに、同じ。
同じなのに、どこか熱が深い。
自分でもどうしようもなく、涙が零れた。
夫はその理由を聞かなかった。
ただ抱きしめる腕の中で、私はようやく息を吐いた。
誰も悪くない。
誰も責められない。
けれど、あの白い部屋で感じた“何か”は、もう二度と忘れられない。
その日を境に、私は時々思い出す。
診察台の上、どこか遠くで「大丈夫ですよ」と言っていた声。
あの声に混じって、自分でも知らなかった欲の気配が確かにあったことを——。
