夫が海外に赴任してから、もう一年が過ぎた。
娘とのふたり暮らしにも慣れたけれど、夜になるとふとした瞬間に、心の奥に空洞のようなものが広がる。布団に入っても、隣に温もりがないだけで、呼吸のリズムさえ違って聞こえる。人の体温って、こんなにも重かったのかと、今さら思う。
その夜も、娘を寝かしつけたあと、私は一人でビールを開けた。浴衣の袖を指で弄びながら、金魚すくいの夜を思い出していた。隣の部屋の独身の男性──あの人。自転車を直してくれたり、道端で立ち話をしたり、気軽に付き合える“ご近所さん”だったはず。けれど祭りの帰り、少し酔った彼の笑顔が、いつもより近くに感じた。
娘を連れて一度帰ったのに、どうにも胸がざわついて、気づけばまた彼の部屋の前に立っていた。「まだ起きてる?」
ドアを開けた瞬間、ビールの香りと金魚鉢の水音が混じった。何でもない会話をしているだけなのに、足の裏がじんわり熱くなる。少しずつ喉が渇いて、グラスの冷気が指先に気持ちよかった。気づけば、彼の目をまともに見られなくなっていた。
唇が触れたとき、自分でも驚くほど自然だった。
娘の寝息を思い出しながらも、身体はまるで別人のもののように反応していた。誰にも触れられない時間が続くと、自分が「女」だったことすら忘れてしまう。その記憶を、確かめたいだけだったのかもしれない。
浴衣の帯が解かれたとき、心のどこかで「こんなことをしてはいけない」と思っていた。それでも止まれなかった。
彼の手は迷いなく私の肌をなぞり、胸の輪郭を確かめるように撫でた。張りのあったはずの胸が、少しだけ重く垂れたことを意識して、恥ずかしさに顔が熱くなった。それでも、その手の優しさに溶かされていく。母でも妻でもない、ただ一人の女として見つめられている──そんな感覚を取り戻した。
そして導かれるように、布団の上に身を横たえた。
最初の瞬間、彼が中へと入り込んだとき、痛みよりも懐かしさがあった。ずっと閉じていた扉が開くような、不思議な震えが体を走った。押し殺した喘ぎが、豆電球の明かりの中で漏れたとき、もう自分を止めることはできなかった。
終わったあと、汗を拭きながら見上げた天井がやけに遠く見えた。
「どうして、こんなことを…」
心でそうつぶやいたけれど、答えはわかっている。夫のいない夜が長すぎただけ。女の肌が恋しくなるのは、罪ではないと、どこかで言い訳していた。
その日を境に、私たちは定期的に会うようになった。
娘が学校に行く時間、夕方前の静寂、あるいは夜更けに。夫とは穏やかなメールのやり取りを続けながら、もう一つの現実を抱えていた。スマホに残った送信履歴が、少しだけ重く見える。夫に悪いと思う気持ちはある。でも、抱かれるたび心が潤い、鏡を見るたび少しだけ笑顔になれる自分がいる。
「奥さん、いきますよ」
あの瞬間の囁きが、今も耳の奥に残っている。
背徳と興奮の狭間で、私はまだ答えを出せずにいる。夫が戻る日まで、この秘密を抱えたまま、女と母の境界で揺れ続けるのかもしれない。
