妻が里帰りしてから、部屋の静けさが耳にこびりついていた。
夜、エアコンの音しか聞こえない部屋で横になっていたとき、突然、壁の向こうから小さな女の喘ぎが漏れてきた。最初は勘違いだと思った。けど違う。確実に、肉を打つような湿った音と、押し殺すような声。
それが隣の奥さんのものだと気づいた瞬間、体中の血が沸騰するように熱くなった。
あんな奥ゆかしそうな女が、あの声を出すのか。
想像すればするほど、喉の奥が渇き、眠れなくなった。
俺の妻は出産で遠く、体を抱くこともできない。
その夜、俺は何度も壁越しの声を思い出しながら、自分を慰めた。
あの時点で、もう理性なんて残っていなかった。
数日後、エレベーターで彼女に会った。
小柄で、髪の香りがやけに甘い。穏やかに微笑む唇の端が、まるで誘っているように見えた。
「お産で妻がいないんです」
そう冗談めかして言ったのは、ただ“隙”を見たかっただけだ。
その時の返り際の笑顔が、俺の理性をさらに削った。
数日後、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、彼女がカレーの鍋を抱えて立っている。
「よかったら、どうぞ」
入ってきた彼女が台所に立ち、袖をまくって皿を洗い始めた。
その細い腕、濡れた手首、腰の動き。
見ているだけで、喉の奥が疼いた。
言葉が勝手に出た。
「いい匂いですね」
それに彼女は笑って、俺の方を振り返る――その瞬間、もう戻れなくなった。
「ご夫婦、仲がいいんでしょう?」
「は……え?」
首を傾げる彼女に、俺は低く囁いた。
「昨夜、眠れなかったんですよ」
その目が驚きで見開かれ、次の瞬間、頬に血が集まる。
「声、聞こえてたんですよ。……あなたの」
彼女は顔を両手で覆い、震えながら下を向いた。
その仕草が堪らなく艶めかしかった。
身体が勝手に動き、彼女の背中を抱き寄せていた。
「そんな声、聞かせる奥さんが悪い」
そう囁いて唇を寄せると、彼女が微かに息を呑んで、逃げようとした。
だがもう止まらなかった。抱きすくめ、壁に押し付けた。
指先で肌をなぞると、彼女の体温がすぐに伝わってくる。
「やめて…」と小さく言った声が、かえって俺を興奮させた。
その声が欲しい。もっと、俺だけに出させたい。
胸を吸い上げ、指で奥を探る。
腰が勝手に動いている。
「ごめんなさい…」と震える声を聞きながら、理性なんて完全に吹き飛んだ。
あの瞬間、俺は彼女の中毒になった。
触れた唇、汗の味、奥に沈めたときの熱さ――全部が焼きついた。
一度中に出した後、息を整えながら思った。
これは一度きりでは終わらない。
どれだけ理屈を重ねても、あの身体をまた抱くまで眠れない。
翌夜、壁の向こうからまた声がした。
それは前よりも艶っぽく、あきらかに“聞かせて”いる声だった。
俺への挑発だと気づいた瞬間、胸の奥がうずいた。
夜が明けるのを待って、俺は彼女のドアを叩いた。
夫が出勤した後だった。
ドアを開けた途端、その腕を掴み、乱暴に引き寄せた。
言葉なんていらなかった。
俺の怒りとも欲望ともつかない感情を、全部彼女の唇でぶつけた。
「昨日、わざと声出してただろ」
問い詰めると、彼女は息を乱しながら目を逸らした。
それだけで十分だった。
キスを深く重ね、舌を絡め、彼女の口から喉奥まで、すべて奪った。
甘く湿った音が響く。
そのまま膝をついた彼女の頭を掴み、ゆっくりと押し込む。
喉の奥まで飲み込む感触。涙を浮かべながらも、抵抗はない。
理性の綻びから漏れた声が、耳の奥で炸裂した。
その後、昼まで何度も抱いた。
奥の奥まで打ち込むたびに、目の焦点が合わなくなった。
「もう無理…」と呟きながらも、脚を閉じようとしない。
そのたびに、俺の腰は勝手に動いていた。
彼女の夫が帰る前に、俺はようやく手を離した。
唇の端に疲れと満足が混ざった笑みを見せられた瞬間、また欲しくなった。
誰の女でもない、俺の女にしてしまいたい。
妻が戻るとき、終わりにするつもりだった。
けど、もう無理だった。
俺たちは今でも外で会う。
待ち合わせの店に来た時のあの視線、触れ合うまでの短い沈黙。
隣にいたときより、もっと深く俺を求める。
夜、壁越しに静まり返った夫婦の寝室を見るたびに思う。
あの壁を越えてしまった日、俺たちの世界は壊れた。
だが壊れた破片の中にこそ、本当の快楽があった。
あの女の声、それを黙らせる瞬間だけが、いまの俺の生きる理由だ。