妻が里帰りから戻り、ようやく賑やかさが戻ったはずの部屋。
なのに、俺の中に残っていたのは「隣の女の匂い」だった。あの夜、壁を越えた瞬間の熱。抱き合うたびに壊れていく理性。その残り香が、まるで消えない。
妻と並んで寝るたびに、隣の声が蘇った。あの甘い吐息、腰を震わせながら「もう無理」と囁いた声。
俺の中で現実が二つに分裂する。隣の女の身体を思い起こすたび、妻を抱いている最中でさえ、あの壁の向こうの記憶が割り込んでくる。
そんな生活が、もう何週間も続いた。
けれど、ある晩――。
ゴミ出しの帰り道、階下の駐車場で彼女に会った。
マスク越しでもわかる、やつれた顔。
「大丈夫ですか」と声をかけた瞬間、ふらりと身体を傾けた。思わず抱きかかえると、柔らかい重みが腕に沈んだ。
「最近、体調が悪くて……」
掠れた声が、俺の鼓膜に焼きついた。
その日から、また俺たちは連絡を取り始めた。
「もう終わりにしよう」なんて言葉は、どちらの口からも出なかった。
夜、妻が娘を寝かしつけている間、俺は再び階下の部屋のチャイムを鳴らした。
玄関を開けた途端、彼女の目に焦点が合わない。
欲望と罪悪感が同居する瞳。
「来ちゃダメなのに……」と震える声。
その言葉が、逆に俺の理性をくすぐった。
抱き合えば、すぐに思い出す。
肌の温度、指の沈み方、声の上ずり方。
あの時から何も変わっていなかった。いや、むしろ深くなっていた。
胸を吸い上げると、彼女は耐えるように首を傾け、涙を滲ませて笑った。
「こんなの、もう戻れないね」
その呟きに、俺は答えられなかった。
数日後、彼女から連絡が絶えた。
LINEを送っても既読がつかない。
焦燥に駆られて、思わず玄関前まで行った。
昼過ぎ、夫の車がないのを確認して、小さくノックした。
出てきたのは泣き腫らした目の彼女だった。
「話があるの」
台所に座ると、彼女は震える声で言った。
「…できたみたい」
鼓動が、一瞬で止まった気がした。
「でも、たぶん、あなたの……」
悪夢みたいな現実が、やけに静かな部屋で響いた。
俺は笑えなかった。驚いた顔もできなかった。
ただ、彼女の腹に視線が吸い寄せられていった。
その奥には、俺と彼女の夜が、形になろうとしている。
「どうするんだ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「わからない…でも、嬉しいって思ってしまった自分が怖い……」
その瞬間、息が詰まった。彼女の涙が頬を伝うたび、胸の奥で何かが弾ける。
「俺が守る」
そう言い切ったのは、恐怖を押し潰すためだった。
守れるわけがない。でも、守りたいと思ってしまった。
抱きしめると、彼女の手が俺の背を強く掴んだ。
それからの時間は、もう“逃げたい”と“もっと欲しい”が絡み合い、糸のように切れそうで切れなかった。
夫が出張の日、俺は彼女の部屋で夜を明かした。
背中を撫でるたび、彼女は腹のあたりを抱くようにして息を漏らした。
「この中に……あなたがいるかもしれない」
それは、祈りにも呪いにも聞こえた。
朝、窓の外が明るくなっても、誰も何も言わなかった。
ただ、抱きしめ合ったまま、壁越しに微睡んだ。
静けさが戻った部屋の中で、俺はようやく理解した。
この関係は、奪うとか裏切るとか、そんな単純な言葉で片づかない。
――壊れた先にしか、生きている実感がなかった。
やがて、妻の腹が少しずつ膨らみ始めた。
そして数ヶ月後、隣の奥さんの腹もまた、ふっくらと丸みを帯びていった。
俺は何も聞かなかった。彼女も何も言わなかった。
ただ、夜中に壁越しの小さな心音のような眠り息を感じながら、罪と快感の境界線がもう存在しないことを知った。
その鼓動のどちらが俺のものかは、誰にもわからない。
けれど、もうどうでもよかった。
俺たちは互いの人生を壊したまま、ひとつの未来を孕んでいた。
狂気と愛情の中で、俺はやっと目を閉じた。

