あの日、玄関のチャイムが鳴った瞬間、自分の鼓動がどこか遠くで鳴っているように感じた。
扉の向こうには、昔からよく知る息子の先輩――あの人が立っていた。
パジャマのまま出迎えてしまったのは、美容にも気を遣う余裕が消えていた証拠だろう。
夫が家を出てから、日常は静かな崩壊だった。食卓に並ぶ皿の数が減り、鏡を見るたびに「もう私は終わった女よ」と心のどこかで呟いていた。
けれど、その日の彼の姿を見た瞬間――崩れていた何かが、逆に疼いた。
「お母さん、大丈夫ですか?」
優しくそう呼ばれる。その声音が、肌の内側を撫でるように心地よかった。
いつからだろう、誰かに“女”として見られたいと思わなくなっていたのは。
ソファに並んで座ると、涙が勝手にこぼれた。
愚痴のように夫の裏切りを話すうち、彼の手が私の手を包んでいた。
その手の温かさが、懐かしい――いや、懐かしい以上に、甘く罪深い。
私自身が気づいたのは、彼の指が背中に触れた瞬間。
肌の下の血が流れる音が自分でわかるほど、熱く、苦しかった。
触れてはいけない、でも触れてほしい。そんな矛盾が体中で暴れ出した。
「無理しないでください……」
そう言われて、逆に身体が逸った。
気づけば、私は泣きながら、彼の胸に顔を埋めていた。
その胸の奥に、忘れていた安心と、女としての焦がれ――二つの熱が入り混じっていた。
パジャマの布越しに伝わる手のひらの感触。肩を抱かれ、背を撫でられる。
もう少しこのまま……そう願ったのに、体は正直に応える。
張り詰めた息が喉の奥で震え、吐息が彼の首筋に触れた。
濡れた視界の中で見上げると、彼が微笑んでいた。
その笑みは少年ではなかった。
“息子の友人”という枠から外れて、一人の男としての顔がそこにあった。
唇が重なった瞬間、微かな電気のような刺激が背筋を走り、
全身がほどけてゆくのを感じた。
理屈よりも先に、寂しさが快楽に上書きされていく。
パジャマのボタンが外される音がやけに大きく響く。
一つ、また一つ。音を数えるたびに、罪悪感が熱に溶けていった。
露わにされた胸を包む空気が冷たくて、でも、彼の唇が触れるとその冷たさがいっきに消えた。
「そんな顔するんですね」
彼の囁きが耳に入り、目を伏せた。
恥ずかしいはずなのに、頬が上がってしまう。
もう、自分では制御できなかった。
濃密な時間の中で、身体が次第に重くなり、
心の奥に ―― “壊れたい” という声が生まれた。
いけないことを重ねるほど、指先も思考も震えて、
最後には“怖い”と“気持ちいい”の境目すら曖昧になっていく。
彼に導かれるまま、私は深く沈み、
泣き声とも笑い声ともつかない音を漏らしていた。
遠くで自分の名前を呼ぶ声がしても返せず、
ただ、その流れに溶かされていくだけ。
――気づいたとき、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
隣には彼が寝ていた。
少しだけ乱れた髪、規則的に動く胸。
その寝顔を見て、やっと理解した。
私はもう“母”ではなく、“一人の女”に戻ってしまったのだと。
朝の空気に触れるたび、昨夜の痛みと甘さがまだ身体の奥に残っている。
冷めたお茶を一口飲んでも、喉の奥がまだ熱い。
そして、心の中で小さく呟く。
――壊れたのではなく、解放されたのかもしれない。
その日から時々、彼は私の家を訪れるようになった。
台所で笑う声、肩を寄せ合う夜、交わされる視線。
罪も、幸福も、同じ温度をしていた。
息子が帰ってくるまでの、短い夢のような時間。
終わりが見えているのに、やめられない。
誰にも知られないまま、この背徳のぬくもりを抱きしめていた。
