夫の不在が決まったとき、心のどこかで「ひとりになりたい」と思った。
だけどその夜、ベビーベッドの横で眠る子を見つめながら、私はスマホに浮かぶ一つの名前を開いていた。
“今夜、話せる?”――短いメッセージ。それだけで呼吸が浅くなる。
彼は出会い系で知り合った人。ふとした言葉遣いが優しく、甘く、軽い。
でも、その軽さが妙に嬉しかった。誰かに“女”として見られている感覚が久しぶりで、怖いほど心が疼いた。
あの日以来、昼間の授乳や洗濯の合間に届く彼のメッセージが、ひとつの「鼓動」になっていた。
そして今日。
夫は朝早く出張に出かけ、家にいるのは私と赤ちゃんだけ。
“もしよかったら、少しだけ会いたい”
彼の言葉に、私はいつの間にか支度を始めていた。赤ちゃんの着替え、バスタオル、ミルクを入れた小瓶。
自分を納得させるための“外出”の名目を、いくつも頭に並べた。
玄関の鏡に映る私。
淡いニットの上に薄いコート。頬に指を当てると、いつもより火照っているのがわかった。
会わなければいいと思いながら、心の奥はその“無防備な期待”を止められなかった。
公園の駐車場。
春を待つ曇り空の下で、彼の車が停まっている。
ドアが開くと、温かい空気が頬を撫でた。
「ほんとに来てくれたんだね」
そう言って笑う彼の手が、ハンドルの上で微かに動く。その手つきひとつに、意識が吸い寄せられた。
助手席へ乗り込む。赤ちゃんは腕の中で小さく息を立てている。
窓の曇りガラス越しに、車内の空気が静かに揺れた。
最初はたわいない話。けれど、笑うたび、向かいの視線が少しずつ熱を帯びてくる。
「…緊張してる?」
「ううん、ちょっと…変な感じ」
その「変な感じ」が、自分でも嬉しい。
彼が手を伸ばし、私の髪の先をつまんだ。
力を入れず、でも逃がさない指先。
そのまま頬へ、耳の後ろへ。指が皮膚の上を滑るたび、体の奥で心拍が重なる。
赤ちゃんの重みで動けない姿勢のまま、私はただ呼吸を合わせるしかなかった。
「……近い」
そう呟いた瞬間、彼の顔がほんの少し傾いた。
視界が狭くなって、呼吸が混ざる。
唇が触れた。反射的に目を閉じると、世界が柔らかく反転したように感じた。
狭い車内。体をわずかにずらすと、衣擦れの音が小さく響く。
赤ちゃんを抱く腕の中、彼の手が腰に回る。まるで揺れるシートが呼吸を持っているようだった。
彼の胸が背に触れ、片方の肩を支える。
その瞬間、体の重心がゆっくり傾く。どちらが動き出したのか、自分でもわからなかった。
窓の外では風。中では肌の摩擦音。
彼が息を吸うタイミングで、私の喉の奥がかすかに鳴った。
赤ちゃんの頭を支えたまま、私は身を預けた。柔らかい熱が伝わる。
心臓の鼓動が、腹の奥から湧き上がってくる。
一瞬だけ視線が合った。
そのまま彼の首に腕をまわすと、体が自然に彼の膝の上に導かれた。
咄嗟に腰を引こうとしたけど、背に回された手が強くなり、逃げ場を失う。
シートの革に触れる太ももが震え、細い息が交わる。
制服のような恋でもなく、愛の告白もない。それでも、肌と肌の距離に背徳という名の鼓動が流れていた。
ガラスの外を通り過ぎる車のライトが、一瞬だけ二人の顔を照らす。
そのわずかな光が、彼の瞳に映った私の表情を曝け出していた――
母ではない、自分。
長い息をひとつ。
赤ちゃんがかすかに動く。
その気配が背筋をかすめ、現実の世界を思い出させた。
彼は私の頬に手をあて、ほとんど聞こえない声で囁いた。
「戻れなくなる前に、いったん息をしようか」
私は頷きながら、胸の奥で何かが痛んだ。
息を吐ききるたびに、罪と安堵が交互に波打つ。彼の服に混じった柔軟剤の香り、それに触れたまま、いつしか身体が力を無くしていった。
帰り道、ミラーに映る顔が少し赤く見えた。
ただ近づいて、触れ合っただけ。それ以上のことはなかった。
――けれど、それでも十分だった。
理性では説明できない熱の残骸が、胸もとに確かに残っていた。
家に戻り、赤ちゃんを布団に寝かす。
その指が握り返してくる力の優しさに、ぎゅっと胸が締めつけられた。
もう連絡はしない。そう決めても、スマホを遠ざけることができなかった。
ランプの明かりの中、私は手のひらを見つめる。
指先に残る微かな温度の記憶。
その記憶は、母としても妻としても語れない――それでも、生きていることを感じさせてくれた証だった。
