これは、夫がいない日にマッサージにいった時の話です。
仰向けになって脚を伸ばした瞬間から、いつもより心臓の音がうるさくなっているのは、自分でもわかっていました。
いつもはうつ伏せで、先生の顔なんてまともに見ないまま、背中と腰をほぐしてもらうだけ。それがその日は、「脚も診ておきましょうか」と言われて、タオルをかけられたまま、正面から向き合う形になっていたんです。
片脚を膝のあたりで支えられて、ぐっと胸の方へ押し上げられるたび、太ももの裏が伸ばされて、気持ちいい痛みがじんわり広がる。
でも、それ以上に気になったのは、タオルと施術着の短パンの隙間から、ときどきひやっとした空気が入り込んでくるあの感覚でした。短パンの裾が、少しずつ上にずれていくのがわかる。自分でわかるくらいだから、先生からも見えているんだろうな、なんて考えると、余計に脚に力が入ってしまう。
「力抜いて、大丈夫ですよ」
先生が笑いながらそう言って、ふくらはぎから膝裏、太ももの付け根へと手を滑らせていく。
タオル越しなのに、指先の動きが妙に意識に残る。
夫にだって、こんなふうにゆっくり脚を触られるなんて、いつが最後だっただろう。出産してからは、夜は疲れて寝てしまうことが多くて、触れられるとしても、せいぜい胸を掴まれて終わるような、慌ただしい触れ方ばかりだった。
「なんかこれって、こう、ちょっと……エッチな感じですよね」
沈黙が怖くて、口の中で何度も転がしていた言葉を、ついそのまま口にしてしまった。
言った瞬間、自分でも「何言ってるの」と思ったけれど、もう遅い。
先生が一瞬だけ手を止めた気配がして、私の顔を見た。視線が合ったのは、ほんの一瞬だったけれど、その一瞬がやけに長く感じられて、顔の熱が一気に上がる。
「ですよね」とか「そんなことないですよ」とか、何か軽い冗談で返してくれればよかったのに、先生は何も言わない。
代わりに、タオルの上から、ゆっくりと太ももを撫でるように手を滑らせてきて——その指先が、タオルの端と短パンの裾の間の、小さな隙間に触れた。
そこから先は、本当に一瞬だった。
タオルをめくるのではなく、あくまで「マッサージの流れ」のまま、親指の腹がするりと布の内側に滑り込んでくる。
さっきまで布越しだった温度が、直に皮膚へ触れた瞬間、全身の産毛が一斉に逆立つような感覚が走った。
「……っ」
声にならない息が喉まで上がってきて、思わず唇を噛んだ。
短パンの中、むき出しの太ももの内側を、先生の親指がゆっくりとなぞっていく。
太ももの付け根に近づくほど、そこが自分のいちばん見せたくない場所に繋がっていると、身体の奥の方が先に気づいてしまう。
「やめてください」と言うべきなのは、頭ではわかっていた。
だって私は人妻で、家には夫がいて、整骨院に送り出してくれた姑がいて、幼稚園に上がる少し前の子どもがいる。
さっきまで、ここに来る前は、キッチンで子どもの好きなハンバーグのタネをこねていた。帰ったら、あとは焼くだけの状態にしてある。
エプロンのまま出ようとして、「整体なんだから、ちゃんとした服に着替えなさい」と姑に言われて、この膝上のプリーツスカートを選んだのは、自分だ。
だからこそ、「違います」「そんなことしないでください」と、口にすることだってできたはずだ。
先生の指が短パンの中に入ってきた瞬間だって、太ももを閉じて拒むことだってできた。
でも、実際の私は、脚に自然と入ってしまった力をゆっくり抜いていくことしかできなかった。
「優子さん、痛くないですか?」
先生が、いつもの調子とほとんど変わらない声でそう聞いてくる。
ただ、その「優子さん」と呼ぶ声が、ほんの少しだけ低くなったような気がして、余計に自分の鼓動を意識してしまう。
「……だ、だいじょうぶ、です」
息がうまく整わなくて、言葉が少し震えた。
震えたのは、恥ずかしさと、それから——。
短パンの裾から入ってきた指が、太ももの内側を、今度は戻るようになぞっていく。
布の境界線ぎりぎりを行き来するその動きが、「境界を越えた」と「まだ越えていない」の中間に私を閉じ込めてくる。
その曖昧さが、いちばん卑怯だと思った。
「これはマッサージだから」「事故みたいなものだから」と、自分で言い訳できる余地を、先生も私も、どこかで残そうとしているみたいで。
でも、身体は正直だった。
布一枚を挟んだところまでしか触られていないはずなのに、下着の中のそこが、じわじわ熱を持っていくのが、わかる。
何ヶ月も夫にまともに抱かれていない身体は、「触れられた」という事実だけに、あまりにも敏感になっていた。
子どもを産んでから、私の身体は母親としての役割ばかりを期待されてきた。
泣かれれば抱き上げ、熱が出れば冷やし、夜中に何度も起きて授乳して、ようやく最近になって、夜通し眠れるようになったところだった。
「女の人」としてふれられることから、私はずっと遠ざかっていた。
先生の指が、短パンの中をさらに深く進んでいく。
太ももの内側の、これ以上上がったら本当に駄目だという境目まで来て、一瞬止まる。その「一瞬」が、永遠みたいに長く感じられた。
子どもの顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。
泣き顔、笑い顔。さっき「いってらっしゃい」と手を振ってくれた、小さな手。
そのすぐ隣に、夫の顔も浮かぶ。
最近、目が合っても、なんだかすぐテレビに視線を戻してしまうあの人。悪い人じゃない、でも、私を「女」として見ることは、もうほとんどなくなってしまった人。
——それなのに。
先生の指先が、ためらいをひとつ挟んだあと、下着のゴムを、外側からふに、と押し込むようにして越えてきた。
柔らかい布が押し広げられる感覚と一緒に、冷たい指の腹が、いちばん濡らしたくない場所に触れてしまう。
「……っあ」
喉の奥から漏れた声は、自分のものじゃないみたいに甘かった。
恥ずかしくて、慌てて片手で口を押さえる。
押さえなければ、本当に変な声ばかり出てしまいそうだった。
ここで止めるなら、まだ間に合う。
そう思った。ほんの一瞬、頭では確かにそう判断した。
「先生、やめてください」——その一言を言えば、きっと先生は手を引っ込める。それで、何事もなかった顔をして、また腰や膝の説明をしながら、いつもの整体に戻ってくれる。
だけど、指はもう、下着の中に入っていた。
布越しではなく、本当に、直接。
触れられた瞬間、そこがどれだけ濡れていたのか、自分がいちばんよくわかってしまった。
冷たい指先に絡みつくような湿り気が、あまりにもはっきりしていて、息が止まりそうになる。
(どうして、こんなに……?)
夫ともしていなかった。
エッチなことを考えていたわけでもない。
整体に向かう途中、頭の中にあったのは、晩ごはんの献立と、今度の参観日のことだけだ。
それなのに、先生と二人きりの部屋で、脚を開いて寝かされているという状況と、「女の人」として見られているかもしれないという予感だけで、私の身体は勝手に準備を始めていた。
「優子さん……」
先生が、低い声で私の名前を呼んだ。
その声に、少しだけ苦しそうな息が混じっているのがわかる。
今、私だけじゃなくて、先生も抑えているんだ——そう思った瞬間、胸の奥の何かが、ずるっと音を立てて崩れた気がした。
(ここまでされて、「何もしないでください」って言う方が、残酷なんじゃないか)
そんな理屈にもならない言い訳が、頭のどこかでひっそりと生まれる。
罪悪感と一緒に、じわじわと身体の奥から湧き上がってくる快感が、その言い訳を後押しする。
夫や子どもの顔が、ちらつくたびに、逆に指先の感触が鮮明になっていく。
先生の人差し指が、慎重に、けれど明らかに迷いなく、私の中に押し入ってきた。
最初の抵抗を越えた瞬間、温かいところに一気に飲み込まれる。
「あっ……!」
今度は、押さえきれずに声が漏れた。
先生の指が少し動くたび、ぬるぬるとした音が自分の中から聞こえてくるような気がして、恥ずかしさで頭が真っ白になる。
それでも、腰は逃げなかった。
むしろ、ほんの少しだけ、指の方へと吸い寄せられるように動いてしまったのを、自分ではっきり感じた。
「……ごめん」
耳元で、先生が小さくそう呟く。
謝られるべきなのは私の方だと思った。
だって、「やめて」と言う機会はいくらでもあったのに、そのどれも選ばなかったのは、私自身なのだから。
「……もう、駄目だって言ったのに」
気づいたら、そんな言葉が口からこぼれていた。
駄目と言った、でも止めてほしいとは言い切らなかった。
そんな曖昧な抗議は、自分の弱さの証拠みたいで、ますます頬が熱くなる。
先生の指が、中でゆっくりと円を描くように動き始める。
くちゅ、くちゅ、と頭の中で音が鳴るたび、腰の奥からじわじわと快感が広がっていく。
脚の付け根に力が入って、膝が震える。
なのに、逃げようとすればするほど、その震えが余計に指を締め付けてしまうのがわかる。
「あっ……あっ……だめ……」
口ではそう言いながら、身体は別の答えを返している。
それが、たまらなく情けなくて、それ以上に、たまらなく気持ちよかった。
「そんなに濡れてる」
先生のかすれた声が聞こえて、心臓がまたひとつ跳ねる。
指の動きが、さっきよりも大胆になる。
浅いところと深いところを行き来しながら、入り口の柔らかい部分をこすっては、奥の方をぐっと押し広げる。
そのたび、視界の端が白くにじむ。
「だめ……もう……」
本当に「いってしまいそう」になっていた。
夫以外の人の指で、こんなふうに乱されている自分を認めたくないのに、身体はどんどん高いところへ連れて行かれてしまう。
子どもの顔も、夫の顔も、今はもう遠くぼやけていって、目の前には、私の脚の間にいる先生の姿だけが残る。
(このまま、指だけで終わったら——)
ふと、そんなことを考えた。
指だけでいかされて、「こんなの駄目ですよ」と冗談めかして笑って、次からはまた何事もなかったように整体だけ受けに来る。
そういう終わらせ方も、きっとあったはずだ。
でも、そのときにはもう、私の中の何かが、別の答えを選んでいた。
「……入れ、ちゃう?」
自分の声とは思えないくらい、掠れていた。
でも、はっきり聞こえるように、先生の目を見て言った。
その瞬間に、完全に一線を越えたとわかっていながら、それでも「指だけで終わるくらいなら、ちゃんと抱かれたい」と思ってしまった自分を、私は否定できなかった。
ここで逃げたら、きっと一生、「もしあのとき」と考えてしまう。
だったらいっそ、戻れないところまで堕ちてしまった方が、諦めがつく——そんな、どうしようもない理屈を抱えながら。
先生の目が大きく見開かれ、それから、底の方で何かを決意したみたいに静かに細められるのを見て、胸の奥がぞくりと震えた。
ああ、本当に、もう戻れないんだ。
そう思った瞬間、恐怖と同じくらいの大きさで、安堵に近いものが胸の中に広がっていった。

