その日、私は心臓の音が耳の奥で鳴りっぱなしだった。
駐輪場に横倒しになっている、大きくて黒いバイク──私が倒してしまった。
五年間かけて手に入れたというその外車を、私は自分の原付でぶつけ、傷つけたのだ。
「本当に申し訳ありません……!」泣きそうになりながら謝る私を、彼は一言も返さない。
静まり返った駐輪場に、彼の小さな舌打ちだけが刺さった。
修理の見積もりを見たとき、「三十万」と聞かされて頭が真っ白になった。
夫には絶対に知られたくない。私は震えながら口にした。
「内緒にしてもらえませんか……? 分割でも払いますから。」
そのとき、彼の表情が初めて動いた。
怒りが笑いに変わる、いや、獲物を見つけた獣のような顔をしていた。
「……カラダで払うか。」
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
でも彼の目を見た瞬間、逃げられないと悟った。
部屋に入ると、空気が重く沈んでいた。彼はドアを閉め、ゆっくりと鍵をかけた。
「脱げ」
声は静かだったのに、命令に逆らえない圧があった。
喉が焼けるように乾いて、指先が言うことをきかない。
ボタンを外すたび、胸の奥で何かが崩れていくようだった。
ブラウスが床に落ち、スカートが膝のあたりまで滑り落ちた。
彼は無言のまま私を見つめていた。
その視線が、光よりも痛かった。
逃げようと身体を引くたび、目線がまとわりつく。
「思ったより、いい体してるな。」
吐き捨てるように言って、唇の端を歪めた。
その瞬間、頬が一気に熱くなった。
何も着けていない自分が恥ずかしすぎて、腕で胸を隠した。
彼はそんな私を見ながら、ゆったりとベッドに腰を下ろした。
「隠すな。全部見せろ。」
静かなのに、逆らえない声だった。
私はその場に立ち尽くし、膝の震えが止まらなかった。
彼の目が私の全身を舐めるように動く。
視線だけで身体を触られている気がして、皮膚の奥まで熱くなる。
「……若い身体は、本当に素直だな」
低く笑ったその声が、部屋の空気をさらに冷たくした。
「こっちに来い。」
その一言で、身体が勝手に反応する。
足が言うことをきかず、まるで糸で引かれたようにベッドの前まで歩いていた。
彼は背もたれに寄りかかり、脚を少し開いて座っていた。
「そこに座れ。」
視線が突き刺さり、逃げ場がなくなる。私はためらいながらも、目をそらしたまま腰を下ろした。
近づくにつれ、彼の息遣いが聞こえる距離になる。
その熱が、肌に当たるたびに動悸が速くなる。
静寂が広がる。
ベッドの上、私と彼の間だけ音が消えて、心臓の鼓動がやけに大きい。
まるでその音だけが部屋を満たしているようだった。
「終わらせたきゃ、自分で入れろ。」
静かに言われたその言葉が、最後の理性を壊した。
頭の中で“拒まなきゃ”と叫んでいるのに、身体は逆らえない。
震える手で、彼の脚の間に膝をつく。
視界の端で、彼の目線が微動だにせず私を捉えているのがわかる。
手が、勝手に伸びていた。生々しい熱が掌に伝わる。
もう、止められなかった。
ほんの一瞬、世界が遠ざかる。
彼の呼吸と私の息遣いだけが絡み合い、時間が引き伸ばされていく。
「そうだ、自分で動け。」
両腕を掴まれ、腰を引き寄せられる。
上下に身体を導かれながら、抵抗も理性も溶けていった。
ぬめる音と荒い呼吸。
彼の手が乳房を乱暴に握って、痛みと同時に快感まで掻き立てられる。
「いや……もうやめて……」
そう言葉を吐いても、身体が言うことを聞かない。
屈辱の奥で、確かに感じていた。
それを悟られたくなくて、私は顔をそむけた。
「ほら、見ろよ、自分から腰振ってるじゃねぇか。」
その一言が、心の奥まで突き刺さった。
限界と共に彼が吐き出すと、私は動きを止めた。
ぐちゃぐちゃになった髪の下で、涙と汗の味が混じっていた。
何も言えず、ただ呼吸を整えるしかなかった。
無音の余韻。
部屋の空気が冷えていく。息を吸い込むたび、さっきまで触れられていた感触がまだ肌に残っている気がした。
「これでチャラだ。」
冷たく突き放す声が、心臓の奥に沈んだまま響いた。
床に散らばった服の影だけが、夜の静寂に孤独に取り残されていた。

