あの夜のことを思い出すと、今でも胸の奥がざわめく。
夫が出張で家を空け、子どもも実家に預けていた夏の、あの蒸し暑い晩。
気づけば、私は同じマンションに住む若い男性を自分から家に誘っていた。
「今日は暑いですね」と、エレベーター前で声をかけただけのつもりだった。
それなのに、彼の笑顔を見た瞬間、なぜか心の奥でスイッチが入った。
最近、誰かに女として見られることがなくなっていた。夫とは数ヶ月口もまともにきいていなかったし、夜の営みなんてもう思い出せないほど昔だ。
だから「ビール一緒にどう?」と何気なく言葉が出たとき、自分でも驚いた。
彼が玄関に立った瞬間、部屋の空気が変わった。
Tシャツとスウェットというだらしない格好のままでも、私を見つめる視線に熱があった。
グラスを渡す手が少し震えていた。お酒が進むにつれ、心の中の壁が崩れていくのが分かった。
夫への愚痴をこぼすたび、肩の力が抜けていって、気づけば笑ってばかりいた。
「旦那さん、いまいないんですか?」
彼の言葉にうなずいたとき、胸の奥が少し震えた。
それを見逃さなかったのだろう、彼がふと真剣な目をした瞬間、これ以上話してはいけないと思った。
でも身体は逆だった。欲しかったのは、優しい言葉より、熱い吐息だった。
お風呂に入って汗を流そうとしたとき、鏡に映る自分の姿があまりに寂しく見えた。
年齢のせいだとずっと思っていたが、本当は「飢えていた」。
ドアの向こうから「一緒に入っていい?」と彼の声。
その一言で、もう止められなかった。
シャワーのお湯の音に混じって、彼の息遣いが近づいてくる。背中についた手のひらの温度で、すべての理性が崩れた。
唇が重なり、舌が触れた瞬間、懐かしい震えが走った。
喉の奥まで彼を受け入れる感覚は、夫にはもう与えられないものだった。
浴槽の縁に座らされ、腰をゆっくり落としたとき、自分が何をしているか理解はしていた。それでも止まらなかった。
「中でいいのよ」と言ってしまったのは、あの瞬間だけの気の迷い――そう信じたかった。
けれど、奥深くで受け止めたときの、熱くて重たい感覚が今も忘れられない。
彼が達したあとも腰を震わせたまま、私は自分の中で何かが変わったのを感じた。
罪、背徳、快楽。全部がひとつに溶けていた。
その後はいつも通りを装った。
部屋を片付け、二人でもう一度シャワーを浴び、笑って別れた。
でも、彼が帰ったあと、ソファに座ると涙が止まらなかった。
「また来てくれる?」と聞いた自分の声が、あまりに惨めだったから。
一週間ほどしてから、胸の張りと下腹の違和感に気づいた。
最初は気のせいと思っていたが、日に日に体温が高くなり、夜になると妙に眠くなる。
生理予定日を過ぎても何も起きなかった時、現実が襲ってきた。
まさか、と思いながら、夜中にトイレで小さな検査薬を手に取った。
蒸し暑い空気の中、白い棒の先に浮かんだ二本線。
その瞬間、全身が固まった。
「中で出したの、ちゃんと分かってたはずよね…」
鏡に映る自分の顔が真っ青だった。
夫の子ではない、あの夜の彼の子かもしれない。頭の中で何度もその言葉が反響した。
あれから何度も会おうと思えば会えた。でも、連絡はできなかった。
もし彼が本当に優しい人なら、かえってこの秘密は残酷になる。
夫と子どものいる生活を壊したくなかったし、罪の報いからも逃げられなかった。
それでも、胎の奥で小さな生命が息づいていると感じるたび、あの夜の感触が蘇る。
熱くて、深くて、どうしようもなく甘い。
罪と快楽の境界線で、自分が「女」に戻った瞬間だった。
今、鏡に映るお腹が少しずつふくらんできている。
誰の子か、もう確かめようとは思わない。
夫の前で笑える自信もないけれど、あの夜を完全に否定もできない。
あの瞬間、私は本当に生きていたのだと思う。
そして、もしこの子が生まれてきたら、きっとあの夜見たような、少し満たされた笑顔を浮かべるのかもしれない。
そんな淡い期待と恐怖を抱えながら、今日もまた、ビールの泡を見つめている。

