あの日の夜勤は妙に長く感じた。病棟の廊下に漂う消毒液の匂い、時計の針の音、ナースステーションの蛍光灯が白々しく光っていた。主任のMさんが私の隣に座って、点滴の記録を確認していたのを今でもはっきり覚えている。
彼は四十代半ば、仕事ができて、患者にも信頼されている。正直に言えば、初めて会ったときからどこか惹かれていたのだと思う。でも私はもうすぐ結婚を控えていた。彼氏は真面目で優しくて、家も決まり、ドレスの打ち合わせまで済ませていた。誰が見ても幸せの形なのに、どこか物足りなさを感じていた。
その夜、勤務を終えた看護師たちは先に帰り、私だけがタクシーで上司たちを送る役になった。M主任の家が最後だった。「ありがとう、助かったよ」と言われたその一言に、妙な高揚感が走った。車を停めると、彼が唐突に言った。
「他の男を知らないまま結婚するなんてもったいないな」
その瞬間、ブレーキを踏む足が軽く震えた。軽い冗談に聞こえたけれど、瞳は真剣だった。狭い車内で、彼の手が私の太ももに触れた時、息が止まった。心臓が暴れるように鳴る。拒めなかった。
気づけば公園の駐車場だった。闇の中、彼に抱き寄せられ、口づけられた。怖かったのに、身体の奥が熱くなっていくのがわかった。理性よりも先に、欲望が身体を支配していた。
「これは遊びだ。お互いに深くは入らない」
そう言われた時、安心したはずなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。罪悪感よりも、誰かに必要とされる快楽の方が勝っていた。
それから私たちは密かに関係を持つようになった。夜勤のたびに、隙を見てはキスを交わし、カーテンの裏で触れ合った。仮眠室の交代時間には、息を殺して身体を重ねた。白衣を脱ぐ音があんなに扇情的だと初めて知った。
彼の唇が耳元をなぞり、囁いた。「ここで感じるお前の顔がたまらない」
その言葉に背筋が震え、恐ろしいほどの快楽が波のように押し寄せた。勤務表には決して記されない、秘密の時間。
やがて、彼の部屋やホテルにも通うようになった。夜勤明け、制服のまま車に乗り込み、ノーパンで運転席に座るのが合図だった。ホテルの部屋では、シャワーを浴びる暇もなく、扉を閉めると同時に唇を奪われた。
暑くて苦しい空気の中、彼の指が下着のない股間をなぞる。息が漏れ、腰が勝手に動いてしまう。抱かれながら、「これは浮気だ」と頭では理解していた。でも、もう戻れなかった。
いちばん忘れられないのは、交換日記を続けていたことだ。携帯電話なんてまだ普及していなかった時代。彼のロッカーにノートを入れ、ページをめくるたびに鼓動が高鳴った。
そこには、彼の筆跡でこう書かれていた。
“お馬の椅子でのセックス、最高だった。またあのホテルで、心の妻に会いたい”
読みながら、私は顔が熱くなり、胸の奥が疼いた。自分が人妻でも恋人でもなく、誰かの「心の妻」になっていることに酔っていた。
その頃、夫との結婚式が迫っていた。ウェディングドレスの試着をしながら、Mさんのことを考えている自分がいた。自分でも理解できないほど、心も体も支配されていた。結婚しても、関係は終わらなかった。
「今日も懇親会があるから遅くなるね」
そう言って家を出るたび、夫の笑顔が胸に突き刺さった。罪から逃げるための言い訳を重ねながら、河川敷で彼の腕に身を委ねた。車内に漂う酒と汗の匂い、湿ったシート、指で弄られるたびに零れ出す音。それが現実なのに、夢のようでもあった。
ある夜、彼が囁いた。
「もし子どもができたら、それは俺の子だな」
冗談とも本気ともつかない口調だった。笑いながら頷いたけど、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。嬉しいような、怖いような、どうしようもない感情。彼の中に違う未来を見てしまったのかもしれない。
でも、そんな日々も長くは続かなかった。ノートが夫に見つかったのだ。あの時の恐怖と絶望は今でも消えない。夫は黙ってノートを読み、顔を真っ赤にして震えていた。
私は泣きながら謝った。「もうしません、本当に終わりにします」
でも、彼の瞳には信頼を裏切った女の姿しか映っていなかった。
すべてが壊れた。夫は怒り狂い、Mさんの家まで押しかけた。職場も辞めるしかなくなった。私はすべてを失った。それでも、何故かあのときの夜勤、あの暗い病棟の片隅で感じた熱だけが、身体に焼き付いて離れない。
理性を失うほどの快楽。誰かに求められる幸福。禁忌を越えた背徳。あれは間違いだったはずなのに、今でも思い出すたび、身体の奥が疼く。
たぶん、私はあのとき確かに“堕ちた”のだ。愛ではなく、欲に。幸せではなく、快楽に。
もし時を戻せるとしても、たぶんまた同じ道を選んでしまうだろう。あの夜のMさんの声、白衣の隙間に触れた熱を、私はまだ忘れられないのだから。
