Sさんがカマをかけたらしい。
「Hさんが、信じられないわ。誰かと間違えたんじゃない?」
「あの人、以外とやり手みたいですよ。Hさんに間違いない。私、後をしばらく歩いてみたんだから」
これらの会話は、後にIちゃんから直接聞いて分かったことだ。
Sさんは俺の服装から、一緒に歩いていたMちゃんの雰囲気まで根掘り葉掘り聞いたという。
俺は、そんな会話があったとは全く知らなかった。
ある日、夜9時頃俺がアパートに戻ると、アパートの電気がついていた。
Sさんがいるなと俺はため息をつく思いでドアを開けた。そして息を飲んだ。
部屋の中が乱雑に荒らされている。机の中身が皆放り出されて、本やら資料やらが散らかっている。
泥棒が入ったのかと一瞬思ったが、そこにはSさんがいる。
俺は流石に驚いて、「一体これは何、君が来たときはこうなっていたの?」と問い掛けたが、彼女は恐ろしい目をして俺をにらみつけた。
彼女の手には、Mちゃんからの手紙が数通握られ、俺の日記が机の前に置かれていた。
「Mちゃんて、誰よ!!!」
彼女は食ってかかるような、恐ろしい目をしていた。
浮気がばれたときの亭主の気持ちがよく分かった。が、浮気をしているのは俺達ではなかったか。
Sさんは大抵、俺の部屋に来るときはノーブラだった。
時にはパンティを履かないでくることもある。俺も雄の性で、服の下で揺れる乳房を見ると、むらむらしてくる。
そんな時、彼女は優しく俺を受け入れてくれた。この一月半、マスターベーションなどする必要がなかった。
彼女は化粧も薄めにしていた。それが俺の好みだったから。
彼女はできるだけ俺に合わせようとしてくれていたのだと、今は分かる。
彼女なりに俺に愛情を注いでくれていたのだ。しかし、それは彼女なりのやり方で、俺の希望とは違っていた。
しばしば来て、部屋を掃除したり、食事を作ってくれたり。また、彼女は自分の好みで部屋の小物を買い始めていた。
少しづつ、殺風景な男の部屋が変わりつつあった
そうは言っても、彼女に捕まるということは、22歳の男が、37歳の女性と結婚することを意味する。
イヤ、結婚とは言っていないが、たとえ同棲であったとしても、一体何事かと思われる関係だろう。
人の目は、うるさい。また、親や親族は、友人は俺のことを一体どう思うだろうか。
彼女がセックスと妊娠を武器に得ようとしている若い男。それは彼女にとっては、大切な玩具だったのかもしれない。
彼女の怒りをまともに受け止めることはできなかった。いきなりこんな状況になったら、誰でも動揺するだろう。
俺は、返事をしなかった。「落ち着け、落ち着け」と自らに語りかけつつ、早鐘を打つ心臓が静まるのを待った。
視線を合わせることもできない。
「一体、誰なのよ!!!」彼女は叫ぶようにして俺に切り込んだ。
俺は周りを見回した。散らばっているのは机の中のもののようだ。
本などはそれほどでもないが、やはり書棚から放り出されている。
女の嫉妬をまともに俺は受け止めてしまっていた。
俺は黙っていた。彼女の前には俺の日記がある。普通日記を読むか。人のプライバシーに、土足で踏み込むか。
手には手紙がある。よく見つけたものだ。愛の確認の言葉も、もちろん入っているやつだ。
日記を読んだのなら、Mちゃんが誰であるか彼女には承知のはずだ。
また、日記には幸いに、ここ二ヶ月以上の記載が無かった。書く気がしなかったためだ。
俺がSさんに対してどう思っているか、禁断の部分は書かれていない。
故に、彼女は俺の愛情を信じ、俺が彼女に対して浮気をしたと思っているようだった。
この大きな食い違いは一体何なのか。俺は人生に絶望しかけていたのだが、彼女はそんな事などサラサラ知らず、ただMちゃんに対して嫉妬している。
俺の根底が腐り始めているのを、Sさんは全く気付いていなかったのだ。
所詮女だな、と今では思う。解りあえないんだな、と思うのだ。
日記を読まれたと意識したことで、俺は瞬間的に冷えた。人生の仁義を、彼女が裏切ったと思ったのだ。
やってはならないことをした彼女に、俺は最後のところまで話をもって行こうと決心した。
破滅も恐くない。今の状態自体が破滅への着実なステップだったから。
俺は、彼女に「日記を読んだね」と言った。
ちなみに、Mでのことだが、彼氏のアパートで日記を読んでしまい、怒り狂った彼に犯された子がいた。
彼氏もMの人間だった。そんな事をする奴には見えなかったのだが、俺には彼の気持ちが解かった。
日記をつけたことの無い人間には、その辺りの心の動きは解るまい。
とにかく、俺も日記を読まれたことで腹が決まったのだった。
もう、行くところまで行くしかない。絶対に引くまい、修羅場を回避すまいと心に決めた。
彼女は、俺の問い掛けに「どうだっていいでしょ。それよりMちゃんて誰よ!!!」
俺は「日記を読んだんなら、解るはずだろ!」ときつい言い方を返した。
彼女は少しひるんだ。俺がきつい言い方をすることは滅多に無かったからだろう。
切れるということも無かった。少なくとも、それを表面には出さないように注意していた。
「読んでの通りさ。よい子だよ。」
「彼女のことが好きなのね」俺は頷いた。
彼女は、再び目をむいた。「私を騙していたのね」
「騙してなんかいない、騙すって、どういうことだ!」
「私を愛しているって、私は最高の女性だって、何度も何度も言ってくれたじゃないの!!」
相手の土俵には上がらない。
「それより、何故日記を読んだんだ。何故手紙を読んだんだ。やってよいことと悪いことがあるんじゃないのか」
彼女は目をそらせた。
理屈が通っているか、どちらに道理があるかなど構っていられない。
「不安があったからって、疑っているからって、日記や手紙を読んでいいのかい」
そこで良心がとがめたのであろうSさんも、俺達旧世代の価値観を持っている人間だった。今ではメールなど読み放題みたいだし、私信を読むことが恥ずかしい行為だという常識も無いようなので、
こういう攻め立て方って取れないだろうと思う。
「私を抱いている間に、彼女を抱いていたなんて・・・・卑怯よ。不潔よ」
ご主人を裏切っているSさんも同じ事だと思うのだが、感情が激するままに言葉が出始める。
次々に俺に浴びせられる機関銃のような彼女の言葉、時には聞くに堪えないような言葉。
俺はできるだけ冷静に対処した。理屈にならない理屈を言いながらも。
乱雑になっている部屋を見ると、心がシーンと冷えてゆくような感じがした。
お互いに感情的にはなっているが、怒鳴り合いにはなっていない。2人とも声はあくまで押し殺していた。
感情が高ぶるままに、彼女は涙をこぼしはじめ、しくしく泣き始める。「ヒック、ヒック」と方を震わせていたかと思うと、
「エッ、エッ、エッ」とその場にへたり込んで、腕で目を覆い、ボロボロ涙を流し始めた。
波だがぽたぽたと畳の上に落ちる。「エーン、エーン」と声を押し殺しながらも、絶望感に打ちひしがれた姿、幸福を奪い取られた少女の様な姿がそこにあった。
ああ、俺は彼女が可哀想に、愛おしく思えてしまうほど、彼女は幼女のように泣いていた。
化粧がどんどん取れる。鼻の頭と目じり、頬の一部から化粧が取れていった。
「私だって・・・私だって・・・・言えないことがあるんだよ!!!」
俺は彼女の側に行き、肩に手をかけた。ここで、仲直りの言葉を口にしてしまうと、一生離れられなくなると思ったので、俺は黙っていた。
彼女の細い肩は、フルフル震えていた。
俺は、感情を押し殺して「部屋を片付けよう。このままでは困るんだ」
彼女は涙で一杯になった目を前方に向けたまま、コクリと頷いた。
ヒックヒックしゃくり上げながら、「ご免なさい、ご免なさい」と言いながら部屋を片付ける。
俺も一緒に片付けた。お互いに視線を合わせないようにしながら、ゆっくりとだが黙々と働いた。
彼女が何かを片付けていたとき、再びへたり込んで、シクシク泣き始めた。何を手にしていたのだろうか、俺には解らない。が、彼女はそれを泣きながらハンドバッグにしまい込んだ。
俺にはそれが何かは解らなかったが、たとえ俺の大切なものであっても彼女にあげてもよいと思った。大切な思い出の品になるのだろうから・・・・
今になって解ることって、沢山ある。どうして彼女があんな姿を取ったのか、どうして泣いたのか、
その場の状況を思い出すと、彼女の心の状態が読めてくるのだ。当時はほとんど解らなかった彼女の心が。
そうすると、彼女のぶつぶつ途切れたような、関係ないように見えた行動が、俺の中で一つになってくる。
だから、彼女の行動の描写に、今まで解らなかった連続性を持たせることができる。
ここに書き込むことで、今まで思い出そうともしなかったことを、できなかったことを
思い出さざるを得なくなり、Sさんとの思い出に新しい意味を見出すことができ、有難く思う。
きっと彼女は恐かったのだ。必ず来るだろう別れの時が。俺が不安に思っている以上に、彼女ははらはらしながら、俺とのひとときを細心の注意をもって作り上げてきたのだろう。
そして、それが崩れる時が来た。彼女はそれを察知したのだろう。
俺は、そのようなことはその時分にも考えないでもなかった。ただ、Sさんの切ないまでの胸の内を、当時は実感として感じられなかった。
今は、Sさんの心がある程度解る。今、俺はSさんの心中を思い、涙が出てくるのを止められない。
実際にSさんと話し合っていたこと、Mちゃんとのことなど、何一つ解決していなかった。
2人の話は平行線のまま進んでいた。が、その内容よりも、雰囲気で俺の心を彼女は読み取ったのだろう。もう元には戻れない、終わりの時が来たと彼女は悟ったのだろう。
終わりを迎えることの哀しさ、切なさで彼女は涙が止まらなくなったのだと思う。
その時も彼女はノーブラだった。片付ける間にも彼女の乳房は揺れていた。かすかな乳首のぽっちもわかる。柔らかい乳首だった。
部屋を片付け終わるときには、彼女は泣き止んでいた。
俺は黙って紅茶を入れるためにヤカンに火をかけた。彼女は黙って俺の姿を見ていた。
俺は自分が彼女を受け入れる言葉を言ってしまいそうで、恐かった。
俺は黙っていた。彼女も黙っていた。俺は何かを話さなくては、と気が焦っていたのだが、
何を話せただろう。俺はMちゃんを選びたいと既に言ってしまっていた。
紅茶を入れる俺の姿を彼女は見ていた。俺が視線をあげると、彼女は視線を逸らせた。
何か激しい感情を彼女が押し殺しているのを俺は感じた。
彼女が何を言ってくるだろうか、一体どうすればよいのだろうか、等々俺は考えを巡らせていた。
「もう、お終いね・・・」彼女が言った。「そうだね」
「楽しかったわ・・・」「俺も」
彼女はまた涙ぐんだ。彼女は紅茶を一杯飲んで、ハンドバッグを開けた。
バッグから出した合鍵を机の上に置く。「これ、返すわ」「うん」
余りにあっけなく事が運んでゆくので、俺は信じられなかった。
Sさんは俺の部屋を出て行った。
Iちゃんからの電話で、Sさんが半月仕事を休んだと聞いた。でも、出てきたときには、元気な様子で安心したとも聞いた。また、Sさんが優しくなったとも。
翌年、Sさんの2人の子供は共に一流大学に進学したという。
もう、Sさんに会うことはなかった。
数年後、一度デパートでSさんがご主人と一緒に歩いている姿を見た。俺は、素早く隠れて彼女とご主人を見つめた。
眉が太く、恰幅がよく、男らしいご主人だった。そして、Sさんはやはり可愛らしかった。2人はにこやかに買い物をしていた。
何とも言えぬ切なさが俺を襲った。俺にはSさんに幸多かれと祈り、見送るしかなかった。
Sさんがいなくなった部屋で、俺は一人ぽつんとたたずんでいた。
嵐の日々が終わった。彼女との話の中で、彼女が妊娠していなかったことも解った。
きちんと部屋は片付けられていた。彼女の香水の匂い、体温が未だに部屋に残っていた。
俺を縛り、苦しめていた状況から離れることができて、嬉しかったか?イヤ、そうではなかった。
何ともいえぬ寂しさが、俺を落ち込ませていた。
人間とは、勝手なものだと思う。机の引出しを開け、彼女の整理を見る。
几帳面な整理整頓だ。ぶちまけられる前より、余程きれいになっていた。
Sさんと撮った写真が見つからない。俺は無意識に探したが、見つからなかった。
Sさんが持って帰ったのが恐らく写真だったろうことも解った。
写真は数枚しかなかった。一緒に旅行に行ったとか、そんな事はなかったから。
ネガはどこに置いたっけな。
あれだけ苦しかったSさんとの日々が、快楽はあったけれど、人間として腐りつつある空しさが、
もう恋しくなってきている。
Sさんが泣いたとき、俺が彼女の肩に手をかけたとき、優しく抱いてあげれば、彼女は応えてくれただろうし、
今もこの部屋に彼女はいただろう。その時の一瞬の判断が、2人の人生を分けたのだ。
こんな一瞬は、誰にでもあるだろう。どちらを選ぶにせよ、リスクがあり、人が傷つく決断が。
俺は決断を下した。彼女と別れると。そして、その通りになった。彼女は家庭に戻るだろう。仮面夫婦かもしれないが、
安定した落ち着いた暮らし。2人の子供も、いつもと変わらない生活を送るだろう。俺とSさんが我慢すれば、それで他の人達は幸福でいられるのだ。
俺はそう結論し、Mちゃんに思いを馳せ、試験勉強を再開しようと決心した。
俺は研究室にしばらくのご無沙汰を詫び、もう一度仲間に加えていただいた。
道場でも、熱の入った稽古を再開した。身体も頭もこの一月余りにすっかりなまっていた。
道場でMちゃんにも会えて嬉しかった。彼女と久し振りに熱の入った稽古をした。稽古の時は、彼女は真剣な眼差しで俺に対していたが、帰りの時など、どことなくよそよそしかった。
おかしいなとは思ったが、さして深く考えなかった。それよりも、勉強のこと、稽古の技術的なことなどが頭を占めていた。
俺はエゴイストになっていた。が、良い意味でのエゴイストになっていたと思う。
結果を先に述べよう。Jとの勝負に俺は負けた。俺は自爆したのだった。
今、Jは政府機関を辞め、民間企業で働いている。順調に出世しているという。
カナダでは、政府機関を辞めたり、また戻ったりということが頻繁に起きるらしい。Jは日本に造詣が深い。また、政府機関で働き、表舞台にに登場することがあるかもしれない。
彼にはカナダと日本の掛け橋として、大いに働いてもらいたいと思う。それだけの力量のある人物だ。
彼を紹介する文が目に浮かぶ。日本に深い理解を持ち、古武道を修業し、日本人の妻を持つJ氏は・・・・
MちゃんはJの妻となり、今カナダで暮らしている。
Mちゃんとのことを夢で見ることがある。いつも物悲しい夢に終わる。
目を覚ますと、「夢だったか」と思う。俺の隣には妻が寝ている。
下の2人の子供も、同じ部屋で眠っている。果たしておれは幸福なのだろうか、そうだ、恐らく幸福なのだ。チルチルミチルの青い鳥ではないが、
青い鳥は自宅で飼われているのだ。それに気付かないだけ。
それでも、Mちゃんとの夢を反芻し、どうしようもない切なさ、哀しみを覚えるのを止めることができない。
今、彼女はカナダのどこで何をしているのだろうか。
彼女も、今の俺のように俺のことを思い出すことがあるのだろうか?
Sさんはどうしているだろうか。あれから26年が経っている。彼女は63歳になっているはずだ。
俺は再びMちゃんとデートをするようになった。といっても、週に一度会えるかどうかだ。
俺は勉強と稽古に馬力を入れた。時間は幾らあっても足りなかった。
マクドナルドでのバイトを辞めた俺は、バイト料が入ってこなくなっていた。
小遣いはほとんど無い。両親には模擬試験やら、色々迷惑をかけている。その上、弟の通う獣医学部は、弟の学年から
大学院修士を出なければならなくなった。金食い虫である。
自然、デートも公園を散歩したり、喫茶店でお喋りをするくらいになっていた。
ホテルに行こうという気にはなれなかった。Sさんと別れて、Mちゃんを大切に思う気持ちが強くなり、そうなると不思議と抱けなくなる。
Mちゃんのご両親とも会った。しっかりしたご家庭で育てられたことがはっきり解った。
家庭環境というのは、確かに大切だ。立派な、常識を弁えたご両親だった。
Mちゃんについて書かせて欲しい。読み苦しかったら申し訳ない。
彼女は二十歳にしては、大人びた雰囲気を持っていた。古武道を稽古しようとするところなど、余程普通の子達と違っていた。
彼女は読書家だったので、俺の師匠の書いた本を読んで感銘を受け、入門したのだった。今は甲野先生などを通じて古武道が見直されているが、
当時は「空手馬鹿一代」の時代で、古武道など見向きもされなかった。
それでも、古武道には日本の本質的なものがあると判断した外人など、入門してきていた。
二十歳でこの門を叩くのだから、それだけでも大したものだった。
彼女は可愛かった。入門してきたとき、俺は初心者クラスの指導を行っていた。
彼女を俺の女房にしようと、一目見て俺は心に思ったのだった。
俺は、あれからずっと同じ道場にいる。途中海外勤務が長かったので、ブランクは大きいが、
それでも入門してくる女の子を見ることができる。
俺が見るに、彼女ほどの子、技術ではなく、性格や素直さ、熱心さにおいて彼女ほどの子を未だに見ない。
Jもそれに気付いていた。彼は俺を先輩として立ててくれていたが、恋愛のバトルにおいては平等だと思っていたのだろう。
もちろん、その通りだ。そして、Jは俺とMちゃんの関係は、割り込むことができないものと思っていたらしい。
が、俺にはSさんという弱みがあった。俺が腐り始めた時期を見て、これならばとMちゃんに言い寄り始めたのだ。
的確な状況判断だ。俺はまんまとしてやられた。
当時、Mちゃんの心は揺れていたようだ。俺も再び気合が入り始めていたし、Jはカナダ人だ。
肉体関係は、俺とだけだった。
俺は、彼女とJとの仲に、少しづつだが気付きだした。Mちゃんは以前のように俺に全てをさらけ出すような雰囲気でなくなってきていた。
心にバリヤーがあるというか、たとえば、俺が彼女と肩を組むと、以前は俺の肩に頬をもたれかけてきて、
幸福そうにしていたものだったが、そんな事が無くなっていた。
ある時、Mちゃんの口からJとの事を聞いた。そして、迷っているとも聞いた。
Mちゃんが奪われようとしている。おれは、冷静ではいられなかった。薄々解っていたことだったが、やはり本人の口から聞くのは辛い。
どうしたら良いだろうか。今の俺ならば、マメにマメに連絡を取り、言葉をかけ、話を聞き、心を此方につなぎ止める。
愛情とは、相手のために時間を使い、心を使い、労力を使うことだ。相手を理解し、相手を受け入れることだと思う。
だが、俺は自爆した。我ながら馬鹿だったと思う。
SさんとのことをMちゃんに話したのだ。何故話したのかは、今となっては定かに思い出せない。
秘密を持たないことが、相手に対する誠意だと俺は勘違いしていたのだろう。大馬鹿者の考え方だ。
これは単なる話す側の自己満足で、聞かされるほうは良い迷惑だ。
秘密を守り、相手に伝えず、死ぬまで秘しておくのが愛情というものだと今では思う。
若い方がこの文章を読んでおられるかもしれない。このことだけは覚えておいて損はない。
秘密は守り通して、墓場まで持って行くことだ。それこそが、相手に対する愛情なのだと思う。
俺は洗いざらいSさんとのことをMちゃんに話した。そして、MちゃんのためにSさんとの関係を切ったこと等を話した。
Mちゃんは青ざめていた。彼女は「話してくれてありがとう」とは言ったが、その時彼女の心は俺を離れたのだった。
それから数日後、MちゃんはJと結ばれた。それまでは、Jを拒み続けていたらしいのに・・・
次の週、Mちゃんと俺は会った。
場所はサンシャインの地下の喫茶店だった。
そこで、俺はMちゃんからJに付いて行くことにしたと伝えられた。
俺は愚かにも、あれだけの秘密を話したのだから、Mちゃんは意気に感じて俺を選んでくれるだろうと勝手に想像していたのだった。
それを聞いてMちゃんの心がどんなに傷ついたか。Mちゃんを抱いていた同時期にSさんを抱いていた俺という存在を、彼女は許せなかったのだろう。
無理もない。未だ二十歳の純情な子だ。今の俺はMちゃんに心から済まないと思う。
が、その時は俺は動揺するだけだった。外見は落ち着いて見せていたが、トイレに行くと座を立って、公衆電話で友人に電話した。
俺は、友人に話を聞いてもらいたかった。話しながら、俺は泣きだしてしまった。
俺の手元に数枚のMちゃんの写真がある。屈託の無い笑顔で写っている。
実は、この写真は彼女がその時持っていたもので、お母さんが撮ってくれたものだった。
俺は、彼女にこの写真を見せてもらい、せがんで数枚を貰ったのだった。彼女は最初断ったのだが、俺の真剣な目を見て頷いた。
ここまで書いて思い出した。Sさんも俺と一緒の写真を、別れの時持って帰ったのだった。
奇しくも同じ行動を俺もSさんも取っていたことになる。そして、Sさんが写真を見て泣きだした気持ちが
今の俺には痛いほど解る。当時の俺も同じ気持ちだったから。
Mちゃんに最後の説得をした俺は、遂にそれが無駄なあがきだと知った。
その後の記憶が、俺には無い。思い出そうとしても、思い出せない。日記にも詳しい記述が無い。
Sさんとの時のことは、かなり思い出せたのだが、思い出せないということは、ショックが大きかったということだろう。
以上でほとんど終わりました。以下は簡単な事後報告になります。
俺は、4年生の時の短答式試験に合格した。
が、論文で不合格になった。浪人する余裕は家にはなかった。
弟の学費が大きく、俺は働く必要があった。
幾つかの会社の内定を取った。銀行、証券、メーカー、運輸と節操の無い内定の取り方だった。
銀行、証券は断った。友人達からは惜しがられたけれど、内定を取った銀行は後に吸収合併され、証券会社は社会を揺るがす倒産劇を演じた。
運輸の会社に入社した。俺は海外を希望した。そして、会社はその通りに俺を使ってくれた。
海外では古武道の稽古が非常に役に立った。日本人として掴んでいて損の無い教養である。
結婚は30歳の時だった。尊敬する方から紹介された女性だった。
俺は面食いだったが、彼女は不細工で、真ん丸顔で、牛乳瓶の底のようなメガネをかけていた。26歳だった。
6人兄弟の長女で、貧乏牧師の娘だった。写真だけで断ろうと思ったが、紹介してくださった方の手前もあり会うだけ会ってみた。
化粧が下手で、赤くなる癖がある彼女は、見るからにださかった。が、話してゆくうちにその聡明さに俺は引かれるようになった。
俺が尊敬する人も、彼女ならばという太鼓判を押してくれていたし、彼女も俺を気に入ってくれた。
結婚して、つくづく良かったと思った。ブスは三日見れば慣れるというが、実際その通りだと思う。
5人の子宝に恵まれ、苦労も多いが充実した人生を送ってきた。
それでも、思い出す。激動の青春時代のことを。
Sさん、Mちゃん、そして多くの友人達のことを。
もし、あの時このようにしていれば、ああしていればと地団駄踏むような記憶が多い。
人生の分かれ道が幾つもあり、一方の道を決断してきた。それが正しかったのかどうかは、今も解らない。
Sさんと一緒になっていたら、どうなっていただろうか。63歳の老婆と一緒に暮らしていられただろうか。
Mちゃんとだったらどうだったろうか。しかし、それは考えても栓の無いことだ。
Mちゃんと別れた後も、幾つもの女性関係があったが、俺が学んだことはSさん、Mちゃん、妻からが一番多い。
また、これ以上引き伸ばしても意味がないだろうし、Mちゃんとの最後は、思い出すのが辛く簡略な記述にせざるを得なかった。
「何を書いているの?」さっき女房がディスプレーを覗き込みそうになった。俺はすぐにデータを消した。
ここで書かれたことは、女房子供も知らない。誰も知らないことを、書かせていただいた。
死ぬまで黙っていなければならない内容を書き込めたことで、心が軽くなった気分だ。
拙い文章で、推敲も経ていない、無駄な繰り返しが多かったりした文章でしたが、皆様からご支援いただけましたこと
心より感謝申し上げます。途中からスレタイからも外れる部分が多かったですが、ご容赦いただききありがとうございました。
皆様のご健勝をお祈り申し上げ、これで終わらせていただきます。